JCIの歴史と原点

創始者の足どり

 この団体の60年という歴史は、人間のその仲間との交友と、その家庭と、そのコミュニティと、そしてリーダーとしてその環境に反応してゆく、彼らの能力との結合である。
 時間を切って、この歴史にあることがらを選択することは、どんなものを選ぶにしろ、その作業は愚かなことではないにせよ、不可能である。しかし、私たちは与えられた期間を見ることはできるし、いつ青年会議所が生まれたか、そしてかつて青年がこの国で必要な発言力を持たなかった時代から、それを持てるようになった青年を開発し、育んできたということを示すこともできる。
 ときは1920年、ウォーレン・G・ハーディング氏が第29代アメリカ大統領となった。初のテレビ受像機が紹介され、国際連盟が形成され、無政府主義者たちが殺人罪で告発され、ウォール街が爆破された。
 これらの事件は、それ自身、特別な領域を歴史の中に満たすものであったが、その間、アメリカ社会のコミュニティ・レベルにおける進歩にとって、非常に大きな力となる可能性をもつできごとがおこった。すなわちアメリカJCが設立されたのである。
 いったい何が、この新しい団体に生命の息吹を与えたのだろうか? 1905年の初め、セントルイスの若い銀行員、ヘンリー・ギッセンバイヤー・ジュニアはこの社会において青年が真に活躍するようになるべきだ、という展望をもっていた。彼が直面した主な問題は、伝達の媒介物が足らないという点だった。
 1910年、ギッセンバイヤーはハーキュリアン・ダンス・クラブ(巨大なダンスクラブの意)をおこした。これは社会団体として初期的なものだったが、このダンスクラブは古いステップのダンスを保存することを目的としたものであった。その後、お酒がダンスに付きもののようになってきたが、ハーキュリアンの会員はこうしたことに反発した。
 彼らは、お酒が用意されている会場では踊らなかった。それは修道院を借りてやっていたためであるが、場所は自然とミーティングの場所ともなっていた。
 こうしたことは意味のないことのように思えるかもしれないが、ここに、後にJC理念(Jayceeism)として知られるようになった、その起源となる何かがあった。このJC理念とは、コミュニティとは社会問題に青年が関係し、青年がそれらを巻き込んでいくという意味あいがある。
 新しい役目を認識してゆくため、ハーキュリアン・ダンス・クラブは、1915年にその名称を「進歩的青年市協会(YMPCA)」とした。これは、セントルイスの市政に関係するようになった政治家の小グループのなかの一人、コーロネル・モーガン氏からヒントを得たものであり、彼と仲間のミーティングを修道院の中で何回もやったなかから生まれたものである。このときギッセンバイヤーは32歳であった。
 この新しい協会の後援者となり、親密な関係をもつようになったのは、セントルイス商工会議所の初代会頭クラレンス・ホーワード氏であった。後に同氏の要請により、協会の会員たちは「若い市民(Junior Citizens)」と名称を変えた。これが「JC」の最初の由来である。
 1918年、ギッセンバイヤーとセントルイス商工会議所に友好関係をもったJCは「若い市民」を「青年商工会議所」と命名した。1920年1月22日、似かよった団体がギッセンバイヤーの下に集まり、セントルイス青年会議所が一つの協議会のもとに形成された。
 6ヵ月後、セントルイス市での初の全国会員大会が開かれ、「アメリカ合衆国青年商工会議所」が登場することになった。ギッセンバイヤーは青年商工会議所の目的として「国家と同じく明確に定義された建設的な方法を通じて共通の目標である“より偉大なアメリカ"をめざして青年のエネルギーを開花させる」と説明している。

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